金魚花火



 携帯電話が鳴り響いたのは、とある夏祭りの夜だった。

 湿気を含んでくたびれている就職情報誌から目を離し、 ポケットから携帯を取り出して見ると、知らない番号が画面に表示されていた。 俺は呼び出し音を無視して、再び就職情報誌と睨めっこを始めた。

 就職を希望してはいるが、面接はまだ受けていない。 電話はどうせくだらない勧誘か何かだろう。 テーブルのコップに手を伸ばし、氷の溶け切った不味い麦茶を飲み干す。

 朝も夜も休むことなく回転している扇風機は、ブゥゥンと不満そうな音を立てながらも、 全力で俺に風を送ってくれている。小さなアパートの一室。 この部屋にクーラーは無いし、今夜も熱帯夜らしいから、こいつは今日も徹夜だろう。

 アルバイトで日々の生活を繋いでいく毎日。 それなりに名のある大学を卒業したものの、就職した企業は一年も経たないうちに辞めた。 しかしいつまでもこんなフリーター生活を続けているわけにもいかない。

「世間って冷たいなぁ」

 わざとらしく一人で呟くと、「馬鹿じゃねぇの?」とでも言いたげに、 薄っぺらな就職情報誌の右端がぺろんと垂れ下がった。

 俺は小さく溜め息をつきながら、冷たい麦茶を取りに台所へと向かった。 ほとんど食べ物の入っていない冷蔵庫から麦茶を取り出して、コップに注ぐ。自炊はあまりする方ではない。

 ピルルルル……

 電話は、まだ鳴り続けている。 しばらくすると留守番電話サービスの音声案内が始まり、それは案内を終えないうちに途切れた。 しかしまたすぐに呼び出し音が鳴り始める。コップを片手に戻ってみれば、同じ番号からだった。

「うっせぇな」

 俺は軽く舌打ちを漏らしながら、プツリと呼び出しを切ってやった。 電源を切ろうとしていると、またも同じ番号から電話がかかってきたので、結局出ることにした。

「もしも――」

「やっと出たよ〜。俺だよ、覚えてる? ったく、一度の呼び出しで出ろっつの」

 もしもし、どちら様ですか?

 そう言いたかった俺の台詞を遮って、そいつはいきなり俺に文句をつけてきた。

「ごめんなァ、突然電話しちゃって。いや〜、懐かしいな、三年振りか? 番号探すの、大変だったんだぞ」

「あの――」

 

 ちっとも懐かしく思えない俺は、再度彼の名前を聞こうと口を開いた。 しかし彼はそれに構わず、次々と言葉を重ねていく。

「あのさ、確か今日って、夏祭りだったよな? いきなりで悪いんだけど、一緒に行かねぇ?  実は彼女と別れちまってさァ。予定空けてたのに、行く相手いねぇんだワ」

 肌に纏わり付いてくる暑さも手伝って、ワケの分からない彼の言葉に苛立ちがつのる。

「いや、あんた誰なんだ?」

 とうとう俺が少しばかり声を荒げて尋ねると、一瞬の沈黙の後、電話の向こうで笑いが起こった。

「あはは、すまんすまん。――俺だよ、リューイチだよ」

 咄嗟に反応できず、俺はきょとんとして、口の中で「リューイチ」と繰り返した。

 リューイチは、三年前、突然大学を辞めて実家にも戻らず、行方知れずになった俺の親友。

 彼が一方的に送信してきた、「俺、大学辞めるワ」のメールを最後に、彼とは全く連絡が取れなくなっていた。 実家には、「旅に出る」と一言、書置きが残されていたらしい。 だが、その二日後に「携帯止められると大変だから、帰るまで払っといてくれ」と電話があったそうなので、 彼の両親も、それほど心配しなかったようだ。

 聞けばリューイチは今、夏祭りの行われている神社の鳥居の前にいるとのこと。

「すぐに行く!」

 言うなり、俺は空いた手で財布を引っ掴み、部屋の外へと飛び出した。





 アパートからそう遠くない神社の鳥居の前で、俺はすぐにリューイチを見つけた。

 昔から童顔で派手な格好を好んでいた彼だが、その日は短い金髪をツンツンに立てた髪型だった。 耳にはピアスの穴が四つも五つも空いている。 そこにブスブスと突き刺さっているシルバーのピアスが、俺には痛そうに見えて仕方がない。

「リューイチ!」

 俺は彼に手を振り、駆け寄った。就職活動中とあって、俺の外見は平凡極まりない。 ファッションセンスもいい方じゃないから、平凡どころか地味なのかもしれない。 そんな俺が年齢不相応に派手な彼の隣に立つのは、何となく変な感じだった。

「よう!」

 三年前と変わらない調子で、リューイチは笑みを浮かべた。 唇の間からこぼれた彼の歯は白く、右の八重歯だけが、ちょこんと飛び出している。

「久し振りだなぁ! 今まで何やってたんだよ。突然大学辞めるから、かなり驚いたんだぜ!?」

「あはは、すまんすまん」

 リューイチは謝罪の言葉を述べるが、ちっとも悪びれた様子がない。そんな態度も、以前と全く同じだった。

「それより、回ろうぜ?」

 笑いながら、リューイチは俺の手を取った。 俺には色々と話したいことがあったのに、リューイチは、俺の意思を全く気にも留めず、 あっという間に人込みの中に入って行ってしまった。 どんどん進んでいくリューイチと手が離れたら、はぐれることは間違いない。最早、会話どころではなかった。

 人込みの中は風通しがすこぶる悪く、俺の部屋以上にムンムンとした熱気が、肌に纏わり付いてきた。 おまけに空気がいたく汗臭い。

「ちょっ、リューイチ! どこ行くんだよ!?」

「うん、こっちこっち」

 黒髪だの、茶髪だの、お面だの、髪飾りだの。 そういったものの中に紛れて、リューイチの派手な姿ですら見失ってしまいそうだ。 戸惑いながらリューイチに声をかけても、大した意味は成さなかった。

「あった!」

「は?」

 リューイチの歓喜の声と共に、俺は唐突に人込みの外へ引っ張り出された。 ほんの僅かに肌を撫でた微風を感じながら上を見ると、『金魚すくい』と左から右へと書かれたゴシック調の文字があった。 地面には、青色の浅い水槽が置かれていて、その中で赤色や黒色の金魚がごちゃごちゃと泳ぎ回っている。

 

「金魚すくいって……これ、ほとんどエサ金じゃないか。十匹二百円くらいの」

 エサ金とは、命の価値と言うには恐ろしく安価な、餌用の金魚のことだ。 水槽に隔離されて元気に泳いでいるそいつらの姿は、まるで何も知らない、弱者の群れのように思えた。

 そして、たくさんのエサ金の間を舞い踊るように、デメ金の赤と黒が二匹ずつ、優雅に泳いでいる。

 俺の手首を片手で握ったまま、リューイチは折り畳み椅子に座っているおじさんに、百円玉を差し出した。 頭のてっぺんがちょっと禿げている金魚屋台のおじさんは、しっかりと手を繋いでいる俺たちを見て、 「兄ちゃん達、仲いいんだねぇ」と言って笑い、リューイチの百円玉を受け取った。

「狙うはデメ金だ! 知ってるかおまえ、この反則的な紙の輪っかはな、一度全部水に浸しちゃうのがポイントなんだ」

「ふ〜ん」

 俺の手首からようやく手を離したリューイチは、薄っぺらな紙の張ってあるプラスチックの輪っかを振り回しながら、 楽しそうにはしゃいでいる。 本当かどうかは知らないが、俺は適当に頷いて、リューイチが、品定めならぬ金魚定めをしているのを眺めていた。

 しばらくして、リューイチは「よし」と気合を入れて、プラスチックの輪を、そっと水に差し入れた。 すると、みるみるうちに紙に水が染みていき、色が変わっていった。

「でやっ!」

 掛け声と共に、勢いよく輪っかを振り下ろす。すると、水がバシャッと音を立てて、浅い水槽の外に跳ねた。 どうやら黒いデメ金を狙っていたようだが、その下手さといったら、まるで幼稚園児並みだ。

「……ぁ」

 すっかり萎れてしまっている紙には、ぽっかりと大穴が開いている。 リューイチは目を見開いて驚愕し、その後、ガックリと肩を落とした。 そのリアクションがあまりに大袈裟で、俺は思わず、小さく吹き出してしまった。

 逃げた金魚は――逃げなくても捕まらなかっただろうが――、悠々とプールの中で泳いでいる。

「下手くそ」

 俺はニヤニヤ笑いながら言ったが、リューイチは全く聞いていないようだった。 まさかさっきのオーバーリアクションを、本気でやってたわけじゃないよな……。

 落胆しているリューイチを見ていると、後ろから幼い声が聞こえた。

「お兄ちゃん、まだぁ?」

 

振り向いてみると、そこには七、八歳の男の子が二人、不満そうな顔で立っていた。

 

 俺は「ごめんね、すぐ終わるからね」と言いながら、愛想笑いを浮かべる。

「ほら、行くぞリューイチ。デメ金くらいで、そんなにガッカリするんじゃない」

 俯いて動かないリューイチを引っ張ると、

「……とって」

「は?」

「俺のデメちゃんをとってくれ!」

「俺のって――違うだろ、それはおじさんのだ。おまえに所有権はねぇよ」

 しがみついてくるリューイチを引き剥がしながら言うと、後ろから再び、「お兄ちゃんまだぁ?」と急かされた。

「ほら、行くぞ!」

「デメちゃぁぁぁん」

「ねえ、まだぁ?」

 ――どうやらこの状況から抜け出すには、リューイチにデメちゃんを与え、さっさと子供に順番を譲るしかないようだ。 俺は観念して、ポケットから財布を取り出した。

「あぁ、もう! おじさん、営業妨害しちゃってホントごめん!」

 俺は、さっきの笑みとは打って変わって迷惑そうな顔をしていたおじさんに百円玉を渡し、 代わりに紙を張ったプラスチックの輪をもらった。

「おい、この黒いヤツでいいんだろ?」

 俺が黒いデメ金を示すと、リューイチは首を振って、その反対側で泳いでいる、同じく黒のデメ金を指差した。 一体何が違うのか、俺には理解できない。

「あ? こっち? ったく……」

 ぶつぶつ言いながらも、もちろんリューイチのような馬鹿な真似はせず、 慎重に背後から近付き、一気にデメ金を器へと掬い上げる。

「スゲェっ!」

 紙の端っこが破れたが、俺は見事にデメちゃんをゲット。 まだ余裕があるので、破れていない反対側を使って今度は一番元気そうな、赤いデメ金を狙う。

「よっ、と」

 小さな掛け声と共に、こちらも楽勝で掬い上げた。 リューイチがパチパチと手を叩き、俺は得意気な気分になる。 まだ大きなデメ金を掬えそうな感じだが……――さすがに、四匹しかいないデメ金を、 イイ年した俺が総取りするのは気が引ける。 俺はせっかくだからとエサ金を一匹もらって、エサ金の二匹目で、わざと紙を破いた。

 二匹のデメ金と一匹のエサ金が入った器をおじさんに渡すと、 おじさんは金魚達を、水の入ったビニル袋に移してくれた。 ピンク色の紐に吊るされたそれを受け取り、リューイチは満面の笑みで喜んだ。 ツンツンの金髪と、ピアスだらけの外見には不相応な表情がおかしくて、俺の口元は自然と綻んだ。

「黒いのはデメちゃんで、赤いのはデメデメだな」

 透明なビニル袋越しに、軽く金魚をつつきながらリューイチが言う。 あまりに安易なネーミングに、俺は苦笑する。

「なんか、デメデメが駄目駄目みたいに聞こえて、可哀想なんですけど。……エサ金の名前はないのか?」

「うん、エサコ」

「……そうか」

 さすがにこれには、何も言い返す気になれなかった。エサコの不憫さに同情するしかない。

「よし、次行こう」

 リューイチは嬉しそうな顔のまま、俺の手首をまた掴んで、人込みの中に入って行く。 俺は、もう戸惑うこともなく、彼の行きたいところへ、並んで付いていった。

 俺は彼と一緒に、キャラクターの袋に入った綿飴を食べ、仮面ライダーとアンパンマンのお面を付けて、 更に、真っ赤な林檎飴を頬張った。

 人込みを抜けた開けた場所で、アンパンマンのお面を付けたリューイチは、 林檎飴のせいで赤くなった俺の舌を見て、ケラケラと笑っている。 厭な気分を吹っ飛ばしてくれる彼の笑顔につられて、俺も一緒になって笑った。

「あ」

 その時、ふとリューイチが電話で言っていたことを思い出して、俺は何の気なしに尋ねた。

「なぁ、おまえ、彼女と別れたんだって?」

「ん〜、まぁな」

 すると、リューイチは今まで見たことのないような表情を浮かべた。 何だか哀しそうで、それでいて、ホッとしたような表情。

「参るよな。ずっと前から、夏祭りに行こうって約束してたのに」

 だが、彼がそう続けると同時に、それは苦笑に変わってしまう。 先刻の表情は、俺の見間違いだったのだろうか。しかし、それを気にするよりも、不満の方が大きかった。

「何だ。それならずっと前から、戻って来てたのか。どうしてすぐに教えてくれなかったんだよ」

 あぁ、すまんすまん。うっかり忘れてた。

 そう言ってくれた方が、どんなに良かったかも知れない。

「うん……色々、あってさ。悪かったよ」

 そう言って、リューイチは泣き出しそうな顔の上に、引き攣ったような作り笑いを張り付けた。

 思わず、俺は言葉を失った。 哀しみと安堵が入り混じった表情も、この作り笑いも、決して俺の気のせいなどではない。

「……おまえ、変わった?」

「え……どこが?」

 逆に尋ねられて、俺は答えられなかった。 少しの沈黙が流れ、なぜか、彼に責められているような気分に襲われる。 黙ってしまった俺に、リューイチは困ったような笑みを浮かべ、首を傾げた。

 すると突然、大きな音とともに花火が上がり、俺とリューイチはほぼ同時に空を見上げた。

「うわぁ……」

 体の芯まで響いてくる、ドン、という低音のリズム。豪快で巨大な絵画が、夜空に光の華を咲かせていた。

「な、こっち来いよ! いい場所があるんだ」

 リューイチの予想外の台詞に、俺は少し驚きつつも、彼に手を引かれて走り出した。





 息を切らせて案内された場所に着くと、そこは神社の裏の使われていない石段で、空が開けて見えた。 何人か先客がいたが、祭りの喧騒は遠い。

「いいだろ、ここ」

 リューイチは言って、適当な場所に腰を下ろした。俺も隣に座り、夜空に咲く満開の花火を見上げる。

「そういえばさ、おまえ、仕事は?」

 花火から視線を下ろし、リューイチが軽い口調で尋ねてくる。俺は、ニヤッ、と口の端を上げて答えた。

「辞めた」

「マジ? 何で?」

「上司のバーコード頭がさ、ムカついたから」

 肩を竦めて応じると、リューイチが吹き出した。

「ハゲてたんだ?」

「うん、ハゲてた」

 他愛も無い、言葉のやり取り。 リューイチは深くを聞いてこなかったが、上司との意見の食い違いが原因だったなどと言ったら、哂われるだろうか。

 俺達はまた、花火を見上げた。

「……なぁ」

 しばらくして、今度は俺が口を開いた。「うん?」と返事をして、リューイチの視線が、空から俺に移される。 シルバーのピアスに反射して輝いている花火の光が、何となく儚げだった。

「おまえ、何で大学辞めたの?」

 尋ねると、リューイチは一瞬寂しそうな表情を浮かべた後、穏やかな微笑みを浮かべた。

「何でかなぁ〜……狭かったんだろうな、あそこは」

「狭い?」

 リューイチはゆっくりと、金魚の入った袋を目の高さに持ち上げる。

「ホラ、こんな具合に」

「!」

 透明なビニル袋の中で、エサコの目は、白く曇っていた。 剥ぎ取られた小さな鱗の内側からは、ジクジクと血が滲んでいる。

 そして、デメデメはデメちゃんに追い回されて、狭い水の中で、自らの赤を散らすように暴れていた。 あの浅い水槽で、悠然となびいていたはずの赤い尾ひれは千切れて、ゆらゆらとビニルの中で漂っている。

「俺には狭すぎたんだ。何か、圧迫感っていうか、閉塞感っていうか」

 これは、本当にリューイチの言葉なのだろうか。

 俄かには信じられなかったが、俺は黙って聞いていた。

 その時、ドン、と一際大きな花火が上がり、リューイチの顔と金魚が照らし出された。 その一瞬の光が薄れていく間に、彼は静かに金魚を下ろして、ニッコリと微笑む。

「俺の彼女なぁ……去年の冬に死んだんだよ」

「え?」

 思わず、息を呑んだ。浮かび上がるアンパンマンのお面が、妙にリアルに、俺の視界に入ってきた。 リューイチの顔の方が、なぜか非現実的だった。

「喧嘩したんだ。携帯も、俺が一方的に着信拒否して、和解なんてしようとしなかった。そしたら、彼女がさ――」

 リューイチは、どこか遠い目をして、夜空に散る花火を見上げた。 まるで、その向こうに、何かが見えているかのように。

「……彼女がさ、雪の日に訪ねてきたんだよ。彼女は、分かってたんだ。 あの喧嘩が、別れの理由になるはずもない。ごめん、って一言で、それが笑い話になることを、分かってた」

 小さな吐息が漏れる。リューイチの声は微かに震えていた。

「だけど、俺は、彼女を一日中外にほっといたんだ」

「…………」

「何時間も、何時間も。部屋の中にいても、白い息が凍りつきそうだった。……俺だって、分かっていたのに」

 俺は何と言ってよいのかわからず、口を結んだままだった。リューイチは空の向こうを見つめたまま、続ける。

「そしたら――次の日にはもう、雪でスリップした車に轢かれて死んでたんだ」

 リューイチの横顔に、表情は無い。周りの人々の声は遠退き、花火の音だけが、妙に大きく響き渡っている。 まるで俺達だけが、空間から切り離されてしまったかのように思えた。

「後悔なんて言葉じゃ、表せない。死ななくてもいい人を、俺は殺した!」

「リューイチ……それは……」

「殺したんだ!」

 違う、と言いかけた俺を遮り、空から視線を落とした彼は、まるで呪いの言葉のように、吐き出した。 リューイチの声に驚いたらしいカップルが振り返った気配がしたが、どうでもよかった。

「何でだろ……好きだったのに、気付いたらもう会えねぇの。 大学辞めて、おまえと離れた時もそうだった。 “友達”っていう関係に拘束されているみたいで、何だか窮屈で嫌だったのに、 離れたら、喪失感の中に放り出されたような気分だった」

 さっきまで表情の消失していたリューイチの横顔は、既にいつもの通りに戻っていた。 その、彼の変わらない表情が、俺には怖かった。

「完璧に矛盾してるよな」

 俺との関係は、そんなに窮屈なものだったのだろうか……。思い出を回想し、首を横に振る。

 ――リューイチは、何にも変わっちゃいない。

 俺はしばらく言葉を探し、やがて、それを紡ぐことに成功した。

「リューイチ。おまえの彼女が死んだのは、おまえのせいじゃない。だって、俺はここにいるんだ。 おまえの言う、窮屈な関係と狭い世界の中で。 ……ある日突然、おまえの彼女と同じように、おまえを失ったって、俺は生きてる」

 リューイチは、無言で俺を見つめている。

「生きてるんだ」

 上手く伝えられなくて、俺は、同じ言葉を繰り返した。 連続して弾ける花火の音と歓声が響き、今まで空間から切り離されていた俺達が、 ゆっくりとそこに戻り始めたのを感じる。

「なぁ、それに、おまえも生きてるんだぞ?」

 彼の目を見つめたまま、俺は言い切った。この言葉を投げかけることが、正しいことなのかは、分からなかったが。

 すると僅かの間沈黙があり、やがて、リューイチがゆっくりと微笑んだ。

「そうだな」

 頷いた彼は、クライマックスを迎えた光の乱舞を見上げた。俺も、彼に倣って空を見上げた。

「ところで……どうやって俺の番号を?」

 花火を見ながら訊いてみると、リューイチが鼻を鳴らして笑った。

「金の力って、凄いよな」

「…………」

「大丈夫。法には触れてないよ」

「……へぇ」

 花火が、終わる。

 帰ろうか、そう言って立ち上がったリューイチの手元を盗み見ると、 ビニル袋の中で、デメデメが双眸を不気味に濁らせ、死んでいた。

 俺の選んだ真っ赤な金魚が死んだことに、リューイチは気付いているのか、いないのか。 楽しかったぁ、と言いながら、歩き始める。

「…………」

 俺は、汗が浮かんだ首筋を右手で拭い、俺とリューイチの間にできた距離を、ぼんやりと眺めた。

 もうリューイチは俺の手首を握ろうとはせず、 しかし、付いてこない俺を不思議に思ったのか、振り返って首を傾げた。

「どうした?」

 金髪のその男は、白い歯を見せて笑った。

「早く行こうぜ、喉渇いた」

「あぁ、何か飲もうか」

 俺が笑みを返すと、彼は笑顔のまま頷いた。

 ……ちょこんと飛び出した右の八重歯が、ちょっと可愛かった。

 夏祭りは、もう終わろうとしている。





 立秋はとうに過ぎたというのに、相変わらず蒸し暑い夜。 ようやく見つけた仕事の内容は意外とハードで、俺はベッドの上でグッタリしていた。

 でも、嫌な疲れじゃないな……そう思って一人笑みを浮かべた時、突然携帯電話が鳴り響いた。 手を伸ばして見てみると、ディスプレイにはリューイチの番号が表示されていた。俺は、喜び勇んで電話に出た。

「もしもし、リューイチ?」

 しかし、返答がない。不審に思い、もう一度尋ねた。

「リューイチ?」

「もしもし……?」

 年配の女性の声だった。俺は驚き、尋ねた。

「……あなたは?」

 尋ねた瞬間、不意に、嫌な予感が込み上げてきた。彼女の答えを、できることなら、聞きたくなかった。

「隆一の母です」

「……。どうも」

「あの……実は隆一が――」

 その後続いた彼女の言葉は、俺の頭を真っ白にした。

「それ、本当なんですか?」

 呆然と尋ねた。それに対する答えは、覚えていない。

 静寂が世界を支配する。湿気を纏う暑さだけが、息苦しく流れていた。

 ――リューイチが、死んだ。

 身体に力が入らない。

 その夜はほとんど眠ることができず、翌朝俺は、会社に電話して、急遽休みをもらった。

 通夜にはうんと早い時刻だったが、リューイチの母親は、俺の来訪を快く迎えてくれた。

 今日、久々に親友に会ったんだ。もし、俺が死んだらさ。そいつに真っ先に教えてやってよ。

 夏祭りの夜、突然家に帰って来たリューイチは、笑いながらそう言ったらしい。 その笑えない冗談が、まさか現実になるなんて、彼の母親は思ってもみなかっただろう。

「連絡取る時は、俺の携帯を使わないと出てくれないから、とも言ってたわ」

「そうですか……それで」

 最初にリューイチが電話してきた時、俺がなかなか電話に出なかったのを、根に持っていたのだろうか。

 「旅に出る」と言って、姿を消したリューイチ。 彼の母親が、一体どこに行っていたのかと尋ねると、各地の名所の名前が次々と挙がったそうだ。 だが、昨日、リューイチの私物から、くしゃくしゃになった旅行のパンフレットが出てきたらしい。

「多分、本当はそこに行っていないのよ」

 悲しそうにそう言って、彼女は俺に携帯電話を差し出す。

「隆一のものよ。悪いとは思ったんだけど、中を見たの。……でも結局、分からなかった」

 そして彼女は、精一杯の微笑を俺に向けると、静かに部屋を出て行った。 俺はその背を見送り、座布団の並ぶひんやりとした部屋で、リューイチの携帯電話を開いた。

 スケジュールも、画面メモも、画像フォルダも音楽フォルダも空っぽ。 そして、数ある着信記録や送信記録の中、身内以外でアドレス帳に登録されていたのは、俺だけだった。 履歴には、どこに掛かるのか分からない電話番号に、英数字と記号で表示されたメールアドレスが並んでいる。

 だが、その受信ボックスの一番上に、宛先不明でセンターから返却されたメールがあった。

 悪いと思いつつも、そのメールを開いた。 本文にはしばらく英文が続き、やがて、リューイチが作成したメール文書が表示された。

 ――ごめん。ごめんなさい。――

 そこには、ただ、そう書かれていた。

 携帯電話を手にしたまま、俺は柩の中に安置されているリューイチを見つめた。

 死化粧が丁寧に施された彼の顔に無邪気な笑顔は無く、同時に、あまりにも綺麗だった。 彼の耳には、穴ばかりはいくつも開いていたが、花火を映した銀色のピアスは、もう一つも刺さっていない。

「おまえ、またかよ」

 この世界すら、彼にとっては窮屈で、狭すぎるというのか。

 馬鹿馬鹿しくて、涙も浮かんでこない。柩から視線を外すと、ふと、棚の上のカラッポの水槽が目に付いた。

「……?」

 立ち上がって近付くと、水槽の前には水が飛び散っていて、デメちゃんが微動だにしないまま、横たわっていた。 きっと飛び跳ねて、水槽の外に出てしまったのだろう。

「…………」

 リューイチの選んだ黒いデメ金。そいつは独り、境界線を越えてしまった。

 ――そしてリューイチも。

 俺には到底、理解できない。

「そういえばおまえ……あの時一度も、俺の名前呼ばなかったな」

 呟き、俺は動かない金魚を、丁寧にハンカチに包んだ。





 夏の終わり、リューイチは死んだ。海で溺れたらしいが、詳しくは知らない。 ただ、水死の割に遺体が綺麗だったから、発見は早かったのだろう。

 もしかしたら、自殺だったのかもしれない――…… 通夜の後、リューイチの親戚達がそんなことを話していたのを聞いた。 だが、俺は正直なところ、例え自殺だとしても、彼の死の理由など知りたくはなかった。

 ハンカチに包んだ黒いデメ金は、近所の公園の木の下に、こっそり埋めておいた。 彼の母親は、金魚が突然消えたと思うかもしれないが、それはどうでもよかった。 ただ、あの夏祭りの後、リューイチが一体どんな顔で、 水槽で泳ぐ一匹の金魚を見ていたのかと思うと、何だかやりきれない気分になった。

 死後の世界があるかどうかは知らないが、もしあるのなら、リューイチは死んだ恋人に会ったのだろうか。 彼は、彼女と再び出会うことを、望んではいないような気がする。

 オマケで掬ったエサ金。俺の選んだ赤いデメ金。リューイチの選んだ黒いデメ金。 しかし、結局、水槽はカラッポになった。 まぁ、俺がどんなに彼の世界を覗こうとしたところで、俺の主観が捉えるものは、いつだって俺を映したものでしかない。

 最近は、仕事にも慣れてきた。彼女もできた。

 リューイチの言う、狭くて窮屈な世界が、どうやら俺には調度いいらしい。

「タケル、どうしたの?」

 浴衣姿の彼女が、こちらを振り返って首を傾げる。

 どうやら思考に沈みすぎて、立ち止まっていたらしい。

 俺は小さく笑って、首を横に振った。

「何でもない。行こう」

 そう言って、俺は恋人の手を握り、歩き始めた。途端に、去年手を繋いだ男の顔は、急速に薄れていった。 ただ、リューイチという存在だけが、俺の記憶の底に沈んでいる。

 ……今年もまた、夏祭りが始まる。

                                  終











〜〜〜〜〜〜あとがき〜〜〜〜〜〜〜

最後までお読み頂き、ありがとうございます。
もしよろしければ、ご意見や感想等頂けたら嬉しいです。

某大学様の、ラジオドラマ原作として使って頂きましたv
ラジオドラマを録音して頂いたMDは、一生の宝にしようと思います。
お声をかけて頂き、本当にありがとうございました。


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